【55】コクヨ |
1879年(明治12年)、富山市に
一人の男の子が生まれました。
マッチを扱う大きな店に生まれましたが、
洪水の被害にあったり、
お父さんが亡くなったりするなど
不運が続きました。
二十歳の冬の夜、商いを志し、
大阪へ行き、「小林表紙店」に勤めます。
しかし大福帳の表紙作りの仕事は難しく、
何度も挫折を経験したのですが、
富山に帰ろう!と梅田駅まで行った時、
駅の時刻表の「富山駅行き」の文字を見て
“ふるさとにはぼくを応援してくれる人がいる。
こんなことで、くじけてはいけない”
と思いとどまったといいます。
黒田善太郎は、27才の時、
「黒田表紙店」を創業します。
表紙の質の良さなどで販売を伸ばし、
1917年、帳簿の製造にとりかかると同時に
店の名前を「黒田国光堂」とし、
“(越中)国の誉れとなるように”と
商標を「国誉(現在のコクヨ)」とします。
1961年、社名を「コクヨ株式会社」に変更。
2024年、ついに社員数7000名、売り上げ1000億円の
文房具における世界的トップメーカーにまで
上り詰めます。
黒田の創業ビジョンは、
「カスの商売」、即ち、
面倒でやっかいで儲からないが、
世のため人のためになる仕事を
やり続けよう!ということでした。
富山国立大学には
「黒田記念講堂」が有ります。
小学校も行っていなかった黒田善太郎が、
「コクヨ」のノートで、
受験を合格した学生達の為に
寄贈したものです。
【54】ミズノ |
1884年(明治17年)5月岐阜県大垣市に、
一人の男の子が生まれました。
9才で父が亡くなり、泣く泣く大阪に
奉公に出されました。
足袋を造る会社でした。
1903年(明治36年)、
水野利八(みずのりはち)は、
京都・三高野球クラブの試合を見て、
野球の魅力に惹かれ、
運動用品の商売を志します。
1906年(明治39年)、
弟・利三と共に、大阪北区で
「水野兄弟商会」を立ち上げます。
「ミズノ」の創業です。
当時グローブは、綿を入れた布製だったので、
アメリカの選手から大笑いされました。
1910年(明治43年)に社名と店名を
「美津濃商店」に変更。
当初は運動服を扱っていましたが、
1913年(大正2年)から、
野球用のグラブ、ボールの製造を始めます。
「美津濃」の由来は、
水野利八の故郷が美濃国(岐阜県)・大垣であり、
生まれた場所が船町であったことから、
船にゆかりの「港」を指す「津」を、
「美」と「濃」の間に入れて
「美津濃」となりました。
利八のモノづくりへの精神
「ええもんつくんなはれや」とともに、
その後も事業は成長していき、
1942年「美津濃株式会社」に社名を変更します。
現在も正式な社名は「美津濃」を使用しますが、
1987年、対外的に使用する表記は
「ミズノ」に統一します。
水野利八は、生前講演会で、常々
「いつか日本から、アメリカ大リーガーが驚く、
スター選手が出る日が来る!」
と話していました。
大谷選手が最初に買ってもらった
バットとグローブは「ミズノ」でした。
水野利八は、1964年(昭和39年)に
野球殿堂入りしています。
【53】塩狩峠 |
雪が降ると、毎年思い出します!
明治37年2月28日、夜8時ごろ、
北海道の名寄駅を出発した列車は、
旭川に向かっていました。
しかし、途中の「塩狩峠」で大雪のため、
最後尾の客車の連結が外れ、逆走し始めました。
満員の乗客に死がせまっていました。
その時たまたま、休み明けだった
鉄道員の長野政雄が、線路に飛び降り
その身体で車輪を止めたのです。
自からの命と引きかえに、乗客の命を救いました。
塩狩峠の彼の墓石には、
聖書の「マルコ福音書15章12節」が
刻まれています。
“友のために自分の命を捨てること、
これ以上に大きな愛はない”
30才の短い生涯でした。今でも鉄道員の鏡とされ、
日本は世界一の鉄道国家になりました。
北海道「塩狩峠」で起きた実話です。
【52】日本マクドナルド |
大正26年、大阪に一人の男の子が生まれました。
大学では英語が得意で、アメリカ軍の宿舎では、
通訳をしていました。
やがて戦争が終わり、アメリカのユダヤ人の友達から、
「日本の食器」を買い付けたいとの契約があり、
藤田は、何としても納期に間に合うよう、
船だと、一ヶ月かかるため、赤字覚悟で、
飛行機をチャ-ターし、納品したのです。
実に3000万円(今の8500万円)という
巨額の赤字でした。
しかし、このユダヤ人「レイクロック」が、
後に、藤田にマクドナルド日本法人の
権利契約を結んでくれたのです。
なんとしても「約束を守る」というこのことが
ユダヤ商法に大きな影響と信頼を与えたのです。
1971年、マクドナルドが日本に上陸。
マクドナルドの全ての商品が売れるごとに、
藤田商店にお金が入るという契約(版権料)でした。
藤田の世田谷の家は、お金の重さで、
二階が抜けたというのです。
「藤田田」の母親は熱心なクリスチャンだったので、
名前を「十字架を囲む~田(でん)」と名付けました。
いつも子供には、“大人に成ったら、
子供達に喜んでもらえる仕事をしなさい”
と語っていました。
【51】赤い靴 |
明治15年、茨城県に野口は生まれました。
横浜の道で、遊んでいる子供達の中に、
赤い靴をはいた女の子がいました。
「おじさん何持っているの」と
話しかけてきました。
一ヶ月後、横浜の同じ道で、
「あの赤い靴の子は?」 と聞いたら、
皆が言いました。
「異人(アメリカ) さんに連れられて、
行っちゃった~」
名前は「佐野きみ」。
母親は北海道の開拓者で、
生活が苦しく、横浜の宣教師の
ヒュエット夫婦に預けられました。
「野口雨情」はその話しを聞いて、
驚きましたが、歩いているうちに、
あの~有名な「詩」が
浮かんできました。
「赤い靴はいてた女の子、
異人さんに連れられて行っちゃった~
横浜の波止場から、船に乗って~。」
ヒュエット夫婦がアメリカに帰る一週間前、
「きみ」は、重い結核にかかり、
孤児院で息を引き取りました。
九才でした。
母親の「岩崎かよ」は 死ぬまで 、
「きみ」 は アメリカに行っているものと
思っていました。
野口雨情も同じでした。
昭和53年に資料が発見され、
少女が短い人生だったことがわかりました。
日本中の誰もが、一度は歌い、その少女は
今も多くの人の心の中で生きています。
写真は、横浜の山下公園にある
「赤い靴はいていた女の子」 の銅像です。
【50】絶対負けない女性 |
明治26年、東京の浅草に
一人の女の子が生まれました。
「伊藤ゆき」です。
服や着物の修理、ズボンの裾上げ等
をしている家庭でした。
17才で戸別訪問しながら、
仕事を取ってきていました。
ある日、大きな家の表玄関から
“伊藤です!何かご用は有りませんか?”
と声をかけると、その家の主人が出てきて、
鬼の形相で、“御用聞きは、裏門から来い!”
と叫んだのです!
余りにも、凄い怒られかただったので
10日間ぐらい震えが止まらなかった
というのです。
伊藤ゆきは、この日のことを
一生忘れまいと心に決め、
“負けない!負けない!負けない!”と、
一日100回、40年間、毎日唱えた
というのです。
苦労して、苦労して、
ようやく小さな会社を作り、会社名を
“伊藤です!何か用は有りませんか!”
という彼女の言葉から、
「イトーヨーカドー」にしました。
今では、コンビニのセブンイレブン等
121社を傘下に置く
「大企業」となりました。
彼女は講演会で、いつも
「アリとキリギリス」の話をしていました。
89才でこの世を去りました。
「女性の企業家では今でも日本一です!」
【49】キューピー株式会社 |
明治16年、愛知県西尾市に
一人の男の子が産まれました。
父親が友達の保証人になったため、
夜逃げするはめになり、
名古屋へ引越ししました。
9才の時、大好きな母が亡くなり、
父親も居なくなりました。
弟2人と妹1人は、
親戚にもらわれていきました。
中島少年は、東京の府中にいる父親の友達に、
もらわれていきました。
星の数ほど、お母さんとお父さんと呼び続け、
毎日泣いたそうです!
中島は青年期に、アメリカに行く機会があり、
サラダにかかった「マヨネーズ」に感動し、
「中島食品会社」を作りました。
大正5年、日本初のマヨネーズが誕生しました。
大好きな両親が、自分に、
“愛と希望と夢を与えてくれたキューピット”
だったということで、会社の名前を
「キューピー株式会社」にしました。
中島董一郎(なかしまとういちろう)は
講演会で、“私より、泣いた人はいないよな!”
と語っています。生涯父親を探し続けましたが、
死ぬまで逢えませんでした。
90才の生涯でした。
【48】深山に咲くユリ |
昔、人間が一度も入ったことが無い
深い深い山の奥に、一輪の百合の花が
咲いていました。
その百合を見て、
誰も来ないのに、
どうして、こんなに
美しく咲くのか!
江戸時代の哲学者「三浦梅園」は
自分の使命を全うしている百合に
感銘して、詩を作りました。
“深山幽谷にて、花みずから麗白”
私達の人生も、
どんなに苦しくても、
理解してもらえなくても、
あきらめなかったら、
いつか必ず花は咲きます!
あの何千年も、人間が来ない
深山の百合のように!
人生一度は、萌えるように
咲ききって下さい!
必ず成功しますから!
【47】樋口一葉 |
明治5年3月25日、
東京(千代田区)内幸町に、
一人の女の子が産まれました。
父親は山梨の農家の生まれで、
幼い頃の実家は裕福でした。
しかし父親が相場に失敗し、
借金を残したまま、
死んでしまいました。
一葉は、針仕事や洗濯など、
ありとあらゆる仕事をしました。
毎日借金の取り立てで、
夜となく昼となく、
玄関をたたく音におびえ、
母と妹と三人で
いつも泣いていました。
20才で「闇桜」を書きますが、
うまく筆が進まず、
雑貨屋を開いたりもしますが
それも上手くいかず、
ついに自殺を何回か
繰り返すまでになります。
しかし、1894年、22才で
「たけくらべ」「にごりえ」「ゆく雲」など、
名作を立て続けに発表します。
死ぬ前の「奇跡の14ヶ月」です。
樋口一葉は、1896年11月23日
24才の短い人生を終えました。
死ぬ間際、小さな声で
“借金取りは、もう来ませんね”と。
樋口一葉は、今の五千札に
載っていますね!
【46】銀河鉄道999 |
昭和13年、福岡県久留米市に
一人の男子が 生まれました。
家が貧しい上、 兄弟が7人もいたので
小学校2年生から「漫画」を書いて
家計を助けていました。
卒業した夜、置手紙を残し、
裸足同然で 家出し、
朝一番の汽車に乗り、
東京へと向かいました。
毎日泣いている母と兄弟のことを思うと
何度帰ろうと思ったことかといいます。
「銀河鉄道999」の話しは、
母を殺した犯人を探す物語です。
“自分が母を苦しめたこととダブる”と
松本零士は語ります。
「メーテル」は
実のお母さんのイメージなのです
ヨーロッパ、アニメ作品 1 位は、
断トツで「銀河鉄道999」です。
世界中が泣いて、世界中が感動しました!
松本零士は亡くなる前に、
“これでメーテルに逢える
「銀河鉄道999」のキップを
手にすることができる”
と語っています。
【45】苦労を逃げない/吉野家 |
明治8年、大阪市福島区吉野町に、
一人の男の子が生まれました。
9才の時、両親と花見に行ったことが
忘れられない楽しい思い出となりました。
やがて両親が離婚し、
裸足同然で汽車に乗り、
東京に逃げてきました。
苦労して、苦労して、苦労して、
やっと明治32年、小さな6畳の店を
東京築地に開くことができました。
関東大震災や東京大空襲にも遭い
焼き出され屋台をしたこともありました。
今では、世界18カ国、日本では1185店舗の
『吉野家』になりました!
江戸の中期に、奈良の吉野から、
大阪の福島区に桜を持ってきたことから
「吉野町」の地名がつきました。
松田栄吉は、両親と3人で食べた
塩おにぎりが、死ぬまで忘れられず、
『吉野家』と名前を決めました。
写真は明治32年の、
6畳一間の第1号店です!
【44】資生堂 |
江戸時代の終わり頃、
安房の国「千葉県」 に
一人の男の子が生まれました。
頭が良く、「薬」について勉強しようと
西洋に渡りました。
そこで驚いたことは、
女性が誰ひとり歯を黒く塗っていないこと、
まゆ毛を剃り落としていないこと、
顔に白い白粉を塗っていないことでした。
大きなショックを受けて帰国した彼は、
日本の化粧が異様なことに気づき、
それを変えようと一生懸命尽力します。
その結果、ついに明治皇太后によって、
1873年、お歯黒とまゆ毛の剃り落としの
禁止が発表されたのです。
「福原有信」は「歯磨き粉」を発売し、
それは瞬く間に全国で売れました。
「資生堂」のはじまりです!
世界に通じる「美しい女性」を目指し、
あれから150年、世界第4位の
「化粧品会社」となりました。
福原は、講演会や「椿油」の訪問販売で
全国各地を巡りました。
冬も夏も休まず、1000回を越えました。
何度も辞めようと思ったそうです。
テレビでアマゾン川の原住民を見ると、
あの頃の日本の化粧を思い出すと言います。
今や世界における「美人大国」となりました。
【43】ホテルニューオータニ |
明治14年。富山県砺波郡に、
一人の男の子が生まれました。
少年時代は、家が貧しく、
小学校へも通うことが
できませんでした。
31才で上京。色々な仕事を経験し、
相撲界にも入門。
砺波山「となみやま」と名乗り
幕下筆頭にまでなりましたが、
ケガで引退を余儀なくされます。
毎日朝から晩まで、
リヤカーを引きながら、
鉄くず拾いを、10年間、
一日も休まずにしたといいます。
彼の努力は、やがて
「大谷重工業」として
実を結んでいきます。
関東大震災、太平洋戦争と続き、
世の中は「鉄の時代」に入り、
彼の会社は、鉄鋼分野で、
大成功することとなるのです。
大谷米太朗は、鉄くずを拾っていた頃、
雨に当たらない、素敵なホテルで、
泊まってみたいと常々思っていました。
その願いは叶い、ついに彼は、
東洋の真珠と言われる五ッ星ホテル
「ホテルニューオータニ」を
造り上げたのです。
「ホテルニューオータニ」は
『ヤマユリの香』を、一番初めに、
置いてくださったホテルでもあります!
【42】世界のホンダ |
明治39年、静岡県天竜村に
鍛冶屋の長男として、
一人の男の子が生まれました。
小学校を卒業した後、
東京本郷の「自動車修理会社」に、
丁稚奉公で勤めますが、
来る日も来る日も、
子守と掃除の毎日でした。
14才のある冬の日、
橋から飛び込もうと、
川をのぞき込むと、
川の中から、手招きするのが見え、
全身に電流が走り、
飛び込む瞬間、
はっと我に返ったといいます。
ご主人に、腫れあがって
顔が見えなくなるほど、
殴られました。泣いて泣いて、
口には言えないほど、
苦労しました。
漢字が読めなかったので、
夜中、ロウソクの光で、
漢字も勉強しました。
20才で、のれん分けしてもらい、
「アート商会」を設立しました。
後の「本田技研工業株式会社」
の誕生です!
今は車だけで“6,845億”!
オートバイで“5,231億”!
その他の分野で「17社」も有ります!
今や「世界一のホンダ」
となりました!
本田宗一郎はこう語ります!
“トラック1 杯、お金を借りました!”
“トラック10 杯、お金を返しました!”
“私は人の悪口だけは、
絶対に言わなかったから、
皆が助けてくれたんです!”と。
【41】「虎屋」 |
「虎屋」は、室町時代に京都で
和菓子屋を営んできました。
関ヶ原の戦いの時は、
80人の丁稚が「どら焼き」を
運んだといいます。
御所の御用達を努めていたので
明治天皇と共に、
江戸に出て来ました。
長い歴史の中で、
「虎屋」が焼けたのは「13回」。
盗賊などで殺された主人は「3人」。
だまされた数は「星の数」に上ります。
どんな苦しい事も、
500年の歴史の中では、
泡のようなものです!
“諦めない”の一言です!と
17代目の若社長「黒川さん」は
語られます。
初代の主人が“寅年”でしたので、
縁起物の「虎屋」になりました。
“すぐあきらめては、
絶対成功しませんから…。
羊羹食べて、最低100年は頑張らないと!”
写真は、虎屋が「関ヶ原の戦い」の時に
運んだ「どら焼き」です!
【40】アーロン・ジャッジ選手 |
ニューヨーク・ヤンキース
アーロン・ジャッジ選手の
生い立ちです。1992年4月26日、
カリフォルニアのサクラメント生まれ。
生後まもなく、教師のパティー夫妻に
養子として迎えられます。
おだやかな優しい性格で、
小学校時代、いじめられている子を見ると
すぐに飛び込んで、助けたそうです。
抜群のスポーツマンだったそうです。
ヤンキースに入団しても、
なかなか上位に上がれず、
マイナーリーグ時代が続きました。
ついたあだ名が「三振王」でした。
苦悩していた時、松井秀喜に
指導してもらう機会を得ました。
毎日、毎日、夜遅くまで
指導してもらいました。
ある時、松井秀喜が
“ホームランをねらわないで、
ヒットを打ちなさい!その延長で
ホームランは生まれるから!”
と指導してくれました。
その時から、“力み”が取れて、
一軍に上がることができました。
今年は「62本」という、歴史に残る
「ホームラン新記録」を打ち立てました。
ジャッジ選手は、“私の恩人は、
松井秀喜さんと育ての親です!
そして、(涙を浮かべながら)、
私を産んでくれた両親です!”と
語っています。
【39】サンスター |
明治44年、広島県安芸郡に、
一人の男子が生まれました。
4歳の時、母が亡くなり、
父親は男の子を叔父さんに預けました。
叔父さんの宮大工の仕事を手伝っていましたが、
15才の時、大阪の「自転車部品」や
「パンク修理用ゴム」の製造販売に携わりました。
ある時、“自転車チューブに「練り歯磨き」
を入れたら”と思い付き、1946年、
日本初の「チューブ容器入り練り歯磨き」
を発明しました。それまで日本の歯磨きは
すべて“粉”でした。
やがて、独立し、朝(サン)と夜(スター)の
一日二回、歯磨きをして欲しいとの思いから
会社名を「サンスター」と名付けました。
「サンスター」の創業者
「金田邦夫」が4歳の時、
布団の中で、病気の母が、
“口に手を入れて、歯を磨いてくれた”
ことが忘れられないといいます。
『ヤマユリの香』モイスチャークリームも、
朝と夜、一日二回のお手入れ、
忘れないで下さいね!
【38】夜顔(マンダラゲ) |
植物で一番「毒」があるのが「夜顔」です。
(曼陀羅華/マンダラゲ/チョウセンアサガオ)
トリカブトの15倍です!
江戸の後期、この花の「毒」を用いて、
世界初の「全身麻酔」が成功しました。
その実験のために、和歌山県紀州から
ネコ、イヌが全ていなくなった
とまで言われています。
最後は、“妻と母親”まで実験台して、
ついに世界初の「全身麻酔薬」ができたのです。
植物はスゴイですね!
全身麻酔「モルヒネ」が出来る
「50年」も前の話です。
世界麻酔協会の父「華岡青州」は、
“母の死”と“妻の失明”という犠牲によって、
何億人もの命を助けたのです!
今でも、「世界麻酔協会」の
マークは、夜中に咲く「夜顔」です!
この花が、世界を救ったのです!
【37】ライオン株式会社 |
明治24年、埼玉に一人の男の子が
生まれました。
4歳の時、父と母の故郷である新潟に
移り住みましたが、生活が苦しく、
16才で上京します。
ありとあらゆる仕事につき、
頑張ってみたのですが、
悉く上手くいかず、27才で
自殺を図るまでになりました。
幸い一命を取り留めた後
友達から、聖書のヘブル書12章11節
の聖句を知らされ、
大きな衝撃を受けます。
“すべての訓練は、当座は、
喜ばしいものとは思われず、
むしろ悲しいものと思われる。
しかし後になれば、
それによって鍛えられる者に、
平安な義の実を結ばせるようになる。”
ライオンは“谷に子供を落とす”
愛があるがゆえに!
主は見ておられる!
やがて彼は、泣いて、泣いて、
1893年、「獅子歯磨き粉」を発売します!
あの「ライオン株式会社」の始まりです。
小林富治郎が、「三越」に
「ライオン像」を寄付したのは、
皆様も、耐えて、耐えて、
勝利者に成って欲しいから
との思いからでした。
【36】ポーラ化粧品 |
今から100年前、
静岡に一人の男の子が生まれました。
結婚してから、妻の手荒れがひどく、
何とかして“直してあげたい”、
との思いから、鈴木忍は1929年、
小さな化粧品会社を作りました。
妻の手荒れを直したいとの一念で、
会社をスタートさせたのですが、
ついに妻の手も治りました!
ある時、京都の事業所に、
一人の女性が “女ではあきまへんか”と
飛び込んで来たのがきっかけで、
日本初の「女性販売員」が誕生しました。
現在は「50,000人」の
女性販売員が活躍しています!
奥様を、映画「パリの屋根の下」の
あのヒロイン「ポーラ」のように!
との思いから、会社を
『ポーラ化粧品』としました!
【35】「福の神」と「キレイ」 |
山手線で、混んでいるのに席が空いています。
よく見て見ると、席が汚れていて、
誰も座らないからでした。
神様は、汚い場所には絶対に居られません。
「気霊(キレイ)」は「綺麗」の、
「気垂る(キタル)」は「汚い」の語源です。
汚い「部屋」や「車」には
「福の神」は座わりません!
神社やお寺は、ゴミ一つありませんから
商品・作品・食品・化粧品など
品がつく仕事は、(…汚れているさまを
“品がない”といいます!)
心も場所も、「福の神」 にいつまでも居て
もらえるよう、綺麗さっぱりにしましょう!
ちなみに、「品」とはお経のことです。
“第何品(ぽん)”といいます。
成功しない人の共通点は、
片付けが出来ないということです。
【34】木星(ジュピター) |
2月の中旬、夜8時頃、
西の空を見上げて下さい!
一つ大きな星が見えます!
木星です!
地球の318倍の最大級の惑星です。
ギリシャ神話の天空最高神ゼウスが
「木星=ジュピター」です!
地球に落ちてくる可能性がある小惑星を
木星はその重力で、全て引き寄せ、
自分に衝突させています!
1994年7月に木星に衝突した
「シューメーカー・レヴィ第9彗星」は、
広島の原爆の6000倍でした!
毎回地球を守ってくれてます!
さすがゼウスの神様デスね!
今日も西の空を見上げて下さい!
感謝でいっぱいデス!
【33】 お遍路さん |
昔は、貧しい家庭は“口減らし”と言って、
お年寄りが、夜中に死を覚悟して家出しました。
死の国(四国)を目指し、白い死に衣装をまとい、
道端で死んでも、すぐに葬ってもらえるようにと、
「杖」は自分のトオバ(塔婆)でした。。
それが全国から来た“お遍路さん”でした。
本来は死ぬ為に来たのですが、
八十八カ所を回る内に、
やる気、勇気、生きる力がみなぎり、
皆元気になって、ふる里に帰りました!
弘法大師の“死んだつもりでやりなさい”
というのが、お遍路さんの着る
「笈摺―オイズル」の意味です!
“お遍路さん”の白服は“死装束”です。
“死んだつもりでやれば、必ず成功します!”
「秋」は人生最後の“燃え尽きる季節”です。
それで秋は「白秋」と言います。
【32】 森永製菓の始まり |
1865年、江戸の終わり頃、
佐賀県伊万里市に
一人の男の子が生まれました。
6歳の時、父親が亡くなり、
その後母親が再婚し、不幸な幼児期を
過ごしました。12才までは
自分の名前も書けなかったそうです。
13才で野菜の行商人となり、
辛い日々を過ごしたといいます。
その後、日本を逃げるようにして、
サンフランシスコに渡り、
洋菓子店の住み込みをしながら、
何でもしたというのです。
主人の勧めで、洗礼を受け、
クリスチャンとなりました。
明治32年、横浜に到着した時、
夢に“羽の生えた天使”が現れ、
その手に“キャラメル”が
握られていたそうです。
まだ日本には無かった洋菓子と
キャラメルを作った「森永太一郎」は、
会社のマークに“天使”を描きました。
それで、森永のお菓子は、
人々から“天使の食べ物”
と呼ばれるようになりました。
森永製菓は、沢山の孤児を支援し、
日本一となりました。
森永太一郎は、死ぬ間際、
“ソロソロ天使が迎えに来るから、
カラテで帰ります!”と言い、
その全ての遺産を、
孤児の支援に寄付したのです。
【31】 日本の人口と寿命 |
江戸時代の人口は
中期、後期を通じて
約3000万人でした。
2022年の日本の人口は
1億2300万人です!
皆様は知っていますか?
縄文時代は、寿命が18才、
江戸時代の平均寿命は
30~40代でした。
自分>子>孫>ひ孫>玄孫>来孫>
昆孫>艿孫>雲孫>天孫>自分。
また戻ってきます!
日本では、ついに、昨年
「来孫」(らいそん)まで来ました。
日本は100歳以上の人が、
12万人を超えました!
自分で自分を見ることになる
時代が来るかも知れませんね!
お金と健康が長生きの秘訣です!
まだまだこれからです!
素敵な人生歩みましょう!
【30】 「元の気」 |
元気でね~!
この言葉の語源は、
生まれて来る時に、
母の胎内で作られる“気”です。
“元の気”です!
苦しい、悲しい、病気の時、
嬉しい時に故郷に帰るのは、
元気の源“母の元の気”にふれて
パワーアップするからなのです。
お正月やお盆に帰省するのは、
人のもつ帰巣本能です!
(ふ)(る)里の母と別れて帰る時、
“気を付けて!”と言ってくれるのは
“良い気”を付けてくれるのです!
戦争で若くして死ぬ時、
90パーセントの人が、
“お母さん!”と呼ぶそうです。
「元の気」に帰りたいからです!
そこが一番幸せな所なのですから!
野菜の母は、ヤマユリです!
タマネギ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ等
127種類は、全てユリ科です!
【29】 お米は「私達のお母さん」 |
明治の初め、和歌山県海南市に
一人の男の子が生まれました。
若いころ、父親の助言で
ヨーロッパへ行きました。
帰国後、2人のドイツ人の勧めで
「カメラ・医療精密機器」の会社を
立ち上げました。
“実れる稲穂は頭が下がる”
との母の教えを胸に刻み、
社員を絶対に怒らなかったそうです。
“腹が立っても、ゆっくり10数えれば、
飛んでいってしまいます!”と。
やがて会社は大きくなり、
「実る田」=従業員2000名の、
世界の「ミノルタ」となりました。
田嶋一雄社長の葬儀に読まれた
有名な句です!
“古わらじ、すてりしは~今食べる米の親”
【28】 暗黒の宇宙 |
1992年1月6日、毛利衛さんが、
日本人で初めて“宇宙”へ行きました。
NHKの中継放送で、毛利さんと、
ゲストの作家、立花隆さんとの
やりとりがありました。
“地球は青く綺麗です!
本当に浮いていますね!”
“毛利さん!地球ではない、反対側の、
暗黒の宇宙を映してください!”
“真っ暗ですよ!”
“いや~!その真っ暗が、
私達の父母なんですよ!
その暗黒の中から全ての生命が
誕生したんです!
その暗黒は“母の胎内”なんです!”
“分かりました!”
NHKで“暗黒の宇宙”が2分間も映りました。
画面の下に次のようなテロップが出ました。
“人類はやっと父母に会いに来ました!”
立花隆さんは、死ぬ間際に、
“これで研究テーマの
「死後の世界と宇宙の謎」を解明できる”と、
まるで子供がディズニーランドに行くように
喜ばれて、亡くなっていかれました。
人生やり残すことがないように
いたしましょうね!
【27】 金星=ヴィーナス=マドンナリリー |
朝、西の空に大きな星が見えます!
明けの明星です!
やがて太陽(星の狩人)が
全ての星を食べつくします!
逃げ惑う星たちですが、
最後まで戦い残る星が“金星”です。
金星は“ヴィーナス”(愛と美と忍耐の女)
ヨーロッパでは“マドンナリリー”と
呼ばれています。
毎朝、西の空を見上げて下さいね!
私達も耐えて、勝利し、
たった1つ戦いに勝ち残った
光輝くビーナスに成りましょう!
今夜も星と太陽の戦いが
繰り広げられます!
【26】 カサブランカ |
ヨーロッパの花の金メダルは、
モロッコの花「カサブランカ」だそうです。
江戸時代、日本の「ヤマユリ」が、
シーボルトによって、オランダに渡り、
品種改良を経て「カサブランカ」となりました。
「カサ」は、スペイン語で「家」で、
「ブランカ」は「白」を意味します。
昔から、素敵な花は地名に付ける習わしがあり、
綺麗なユリは、あまりにも要望が多く、
“くじ引き”の結果、モロッコに決まりました。
今でも、カサブランカの街では、
世界最高の「カサブランカ」のユリを、
あらゆる街角で売っています!
素敵な白街。「カスバの女」とユリは
よく似合いますね!
【25】 ツバメの恩返し |
家の中に巣を作る「ツバメ」ですが、
なんと“家族の顔”を
全部知っているというのです!
富山県でのことです。
自分の家のツバメに目印を付けたところ、
1キロも離れた我が家の田んぼに飛んで来て、
害虫を取ってくれたそうです。
一日中我が家の田んぼを飛び回る姿に
涙が出たそうです!(富山新聞)
長野県では、
巣から落ちたヒナを助けたを
おじいさんの葬儀中に、1羽のツバメが、
何度も何度も入って来たというのです。
“僕が助けてもらったツバメだよ!”って…。
皆も言っています!
植物も動物も全て、
受けた恩は決して忘れないって!
今は田植えの時期です!
“ツバメの恩返し”、
思い出してくださいね!
【24】 字の不思議 |
皆様には、大好きな「字」がありますか?
「十」は“十字架=苦しみ”を意味します。
十の上に立を書くと「辛」となります。
でも人は、多くの場合、
この「辛さ」を我慢できません!
昔から、“石の上にも三年”と申します。
“あと一歩”、“あと一歩”我慢しましょう!
「辛い」という字に、「一」を足すと、
なんと「幸」となります!
イエス・キリストは死んでから、三日後に復活し、
新たな出発とともに、
世界1位の宗教になりました。
辛いとき、十字架を背負ったときに、
この“字の不思議”を思い出し、
神の“あと一歩”を待ちましょう!
必ず「幸せ」は来ます!
決意を「10回」口にすると
「叶う」となります!
必ず「幸せ」をつかんでください!
今日もガンガンいきましょう!
【23】 「カンノン」から「キャノン」へ |
1900年、福山市に一人の男の子が生まれました。
Cannonの創始者「吉田五郎」です。
吉田は小学生の頃から、機械いじりが好きで、
なんでも分解して組み立てることを好きで、
それを遊びにしていました。
その中には当時大変貴重であった
外国製の中古カメラもありました。
それがきっかけで「カメラ」に深い興味を持ち、
旧制・福山中学校を中退し、
上京して映画の撮影用カメラや映写機を
修理する業者で働きました。
仕事でカメラの機材を上海に買い付けに行った時、
吉田をアメリカ人貿易商がからかいました。
「おいおい、なんだってお前はこんな所に買いに来るんだ。
お前の国には素晴らしい軍艦や飛行機を造る技術が
あるじゃないか。それだけの技術があるなら、
こんなものくらい造れないわけがないだろう!」
吉田の青年期は不良で、今でいうヤンキーでした。
ドツボにはまりかけた頃、家の近くにあった
観音堂の前を通りがかった時、
祀られていた観世音菩薩様と目が合い、
その瞬間、口から黒い煙のようなものが出て、
我に返ったというのです。
こんなエピソードを持つ吉田だったので、
往年の負けず嫌いのヤンキー魂が発揮され、
「ドイツのライカをしのぐ」という
とんでもない目標をかかげ、
高級35mmカメラ造りに取り組むことになりました。
それから、苦労して苦労して、
観世音菩薩に対する信仰心から、
「カンノン」という会社を立ち上げ、
外人にも発音しやすいようKをCに変え、
あの「世界のCanon」が誕生したのです。
観音様が奇跡を見せたのは、
きっと吉田の頑張り魂と才能を
惜しんだからなのでしょうね!
今も、福山の観音様に、
ユリの花を献げることを
欠かしたことは無いそうです。
吉田五郎は、一度も人の悪口を
言ったことが無いそうです。
神に愛されたんですね!(文)
【22】 ブラザーの誕生 |
1904年、名古屋の熱田に
男6人と女4人の、長男として
安井正義は生まれました。
父親はミシンの修理業をしていましたが、
銀行とのトラブルで
自殺してしまいました。
母と兄弟は途方に暮れ、
父が作ったミシン業を立ち上げようと、
兄弟同士で助け合いながら、
死に物狂いで働きました。
やがて「安井ミシン兄弟商会」を
立ち上げることができました。
世界の「ブラザー(兄弟)工業」の始まりです。
六畳一間で、全員が夜寝る時は、
お母さんを真ん中に、
お母さんの手を握って寝ました。
安井会長は講演会の中で、
お母さんが死んでしまわないようにと、
みんなで手を握っていたと、
いつも泣きながら話されました。
「ユリ」は“兄弟で咲く”ので、
世界で「ビッグブラザーリリー」
と呼ばれています。
兄弟で励まし合いながら
雨風に耐えているんですね!
【21】 高校三年生/舟木一夫 |
1944年に愛知県一宮市に、
男の子が生まれました。歌が上手く、
高校二年の時、テレビ番組で
チャンピオンになりました。
貧しい家庭に育った上田少年は上京し、
遠藤先生の元でレッスンを受けていました。
ある日「岡本あつお」が歌う予定だった曲が
ピアノの上に置いてありました!
“先生!僕にこの曲、歌わしてもらえませんか!
僕は高校二年までしか行っていないので…!”
遠藤先生は岡本あつおの為に作った歌を
上田少年に歌わせたのです。
作詞家は、新聞記者で世田谷の下北沢にある
「松陰高校」の文化祭の取材に来ていました。
赤い夕日が校舎に当たり、
生徒はフォークダンスの練習中でした。
入口に大きなニレの木が有りました。
「丘としお」の手帳に、あの名曲の詩が、
スラスラと浮かんだそうです!
舟木一夫の名前で「高校三年生」は
大ヒットしました!
今もニレの木と校舎が夕日に映えています。
岡本が乗るバスが、“たまたま”
30分遅れたからでした!
“たまたま”は、舟木にとっては、
幸玉でした!皆様も時間だけは、
気をつけてくださいね!
【20】 サントリーの誕生 |
1879年に大阪の釣鐘町に、
一人の男の子が生まれました。
13歳で酒屋に行き、15歳の時、
勤め先でチフス病が流行し、
8人のうち5人が亡くなりました。
鳥井少年も数日の命と言われましたが
カーテンから、太陽の光が目に飛び込んで来て、
“死んではダメだ!お前には使命が有るんだ”
と、太陽が叫んだのです。
“世界を揺り動かすんだ!”
との決意で、25歳の時、
酒屋を立ち上げました。
太陽に助けられたので、
太陽(SUN)と自分の名前(鳥井=TORY)
から、世界一の「サントリー」が
誕生しました!
赤玉ワインは太陽デスね。
鳥井信治郎の葬儀には、
赤と白のユリが1万本も
飾られていました。
1962年2月20日
その日は雲一つ無い晴天でした。
【19】 SHARPの誕生 |
明治26年、東京下町に
男の子が生まれました。
家計が苦しく、1才1ヶ月で養子に出され、
食事も満足に与えられず、
過酷な幼児期を過ごしました。
小学校は二年で中退し、
朝から深夜まで、
マッチ箱張りの内職の日々でした。
近所の盲目の女性(井上せい)が
カワイそうに思って徳次を助け出し、
丁稚奉公に出してくれました。
奉公先の優しい主人から、
金属加工を教わり、
やがて一人前となった徳次は、
1915年シャ-プペンシル、
1929年国産第一号のテレビ、
電卓などを次々と発売し、
やがて早川電気は「シャープ電気」
となりました。
「シャープ」の創業者早川徳次は、
“私は漢字が読めないから、
全てひらがなでお願いします。
私は字が読めないから、
私のようにならないために、
ペンシルを思いつきました”
と語っています。
【18】 SONYの誕生 |
明治41年、日光市に
男の子が生まれました。
2歳の時、父親が亡くなり、
母親と一緒に、親戚のいる
安城市に行きます。
5才から8才まで
東京で過ごしますが、
お母さんが再婚し、
相手の実家の神戸に
行くことになりました。
しかし、母親が仕事で
岡山に行ってしまうと、
父親の暴力に泣く毎日が
始まりました。
中学一年の冬、裸足で
夜汽車に乗って逃げ出し、
東京へと向かいました。
やがて早稲田を出て、
トヨタより名が知られたと
言われている、
世界の「SONY」を
作り上げたのです!
井深大(いぶか まさる)は、
死ぬまで誰に助けられたのかを
口に出しませんでした。
ソニー(SONY)とは、
男の子(坊や)を意味する英語の
「Sonny」に由来しています。
彼自身が「悲しみをこらえる子供」
「SONNY boy」だったのでしょう。
夢で発車のベルが鳴っている
“早く東京に出て行け!”と…!
【17】 聖母マリア・空海と百合の花 |
ヨーロッパでは「百合の花」は
「聖母マリア」の希望の象徴であり、
「教会の花」として用いられています。
天使ガブリエルは、手に
「百合の花」を持って、マリアに
「受胎告知」をしています!
「百合の花」は「バチカン市国の花」
ともなっています。
「空海」は若い頃、よく深山に入り、
ヤマユリの傍を好んで座り、
「お経」を上げたとのことです。
厳しい自然の中で耐えぬき、
美しく咲き続ける「百合」の姿が、
修行に耐えて、悟りを開くことに
重なったのだと思います。
たくさんのお経の中に、
「花の恩経」があります!
辛さを耐えぬいて、
必ず“花開くお経”です!
つぼみでは終わりたくないですね!
【16】 サロンパスの誕生 |
1847年、江戸の終わり頃、
佐賀県鳥栖市に一人の男の子が生まれました。
荷車を引く仕事をしていた時、
車輪が足に乗り上げ、
足が腫れ上がってしまいました。
夜中、水を飲もうと台所に行った時、
そこに「鮭の皮」が捨てられてたので、
それを足に巻いて寝たところ、
朝になると、なんと、ハレが引いて
痛みもなくなっていました。
それをきっかけに、やがて彼は
「漢方薬製法」を学び、消炎鎮痛剤を開発し、
あの「サロンパス」の誕生へと
つながっていったのです。
「久光仁平」は、
世界の「久光製薬」となったのです。
死ぬほど苦しかった、
死ぬほど楽しかった。
休むのは死んでからだ~
彼はいつもそう語っていました。
【15】 ミロのビーナスと日本 |
1820年、江戸の終わり頃、
ギリシャのミロス島で、
一人の農民が、土の中から、
古代ギリシヤの彫刻である
女性像を見つけました。
歴史的な大発見でした!
ミロス島から見つかったので
「ミロのビーナス」と呼ばれていますが
現在はパリのルーヴル美術館で
展示・管理されています。
「ミロのビーナス」が
ルーブル美術館を出て、
海外へ渡ったことは
たったの一度だけです。
「ミロのビーナス」は、
1964年4月~6月に
日本に来ました!
しかし、京都へ輸送する際、
一部が破損してしまいました。
その修復作業を、
寺の修復を専門とする
スペシャリスト達が取り組み、
なんとキズは、展示前に
完璧に修復されたのです。
その技が世界から認められ、
日本は「修復の世界1位」と
呼ばれるようになりました。
今日も夜空を見上げてください。
一番大きな星、金星(ビーナス)が
輝いています!
太陽が昇り、ドンドンと星は消えても、
最後に残る星が「ビーナス」です!
どんなに苦しい時も、
耐えて~耐えて~
耐えぬく女性像、それが
「明けの明星・ビーナス」です!
【14】 親鸞と最後の灯 |
昔、能登半島に親鸞聖人が
来られた時のことです。
夜、油を持って話しを聞くのが
習わしとなっていました。
洞くつの中に吹雪が吹き込み、
全ての油の火が消えてしまい、
最後の一つになってしまいました。
ところが、その最後の火は、
どんなに雪や風が吹いても
消えることはなかったのです。
聖人が“この油はどのようにして買ったのか”
と尋ねると、女は、
“命より大切な髪を売りました”と
答えました。
“辛い思いをしたんだね…”
「貧者の一燈!」「小さなお金も大切に!」
このことがきっかけで、親鸞聖人の
あの有難いお経「勝漫経」が生まれた
と言われてます。
今でも「やる気」「勇気」「元気」
を与えてくれます!
【13】 スティーブ・ジョブズと母 |
1955年2月24日、
シリア人の父とアメリカ人の母との間に、
スティーブ・ジョブズは生まれました。
ジョブズは、生後すぐに養子に出され、
養父母に育てられました。
小学校や中学校では、度々いじめに会い、
学校を何度も替わっています。
幼い頃から、頭の中に数字が出て来て、
精神科にまで相談に行っています。
もう頭の中ではコンピュータが、
動き出していたのです!
やがて彼の創ったアップルコンピュータは、
世界を席巻し、大成功を収めることとなりました。
実の生母と再会したのは、40才過ぎの、
養母が亡くなった後のことでした。
シアトルの小さな公園で母と会いました。
カリフォルニアから来る飛行機代金も
母にとっては大変なことでした。
母とは30分で別れたそうです。
別れるときジョブズは、
“生んでくれてありがとう!感謝してますよ!
お母さん、飛行機代です!”と、
小さな封筒を母に渡しました。
なんと「20億円」の小切手でした。
母はそれを全て親のない子供たちに寄付しました。
実の父は、死ぬまでジョブズに会わなかったそうです。
ジョブズに迷惑がかかるからと…。
ジョブズは、2011年10月5日、
膵臓癌で他界しました。
【12】 ユリは山のお医者さん |
最近医学会において、“香の効果”として
期待されているのが「リラックス効果」です!
香りの中には、安心作用、鎮静作用、
効うつ作用などの「ストレス軽減効果」が
あることが明らかとなってきています。
特に「ユリの香り」には、安定、安らぎ、
やる気、勇気、元気等の精神を呼び起こす
「アストロナイト神経細胞」に、
絶大な効果があることが分かってきています。
「ユリの香り」は、夜になると
3倍から7倍になり、
たくさんの動物たちを癒しています!
更に彼らは「ユリ球根」(ビタミン群)を
食べて元気を取りもどしているのです!
ヨーロッパでは、ユリはまさに
「山のホスピタル(病院)」である
と言われているのです。
ヤマユリは、動物達の
「お医者さん」だったんですネ!
【11】 長瀬富郎/花王石鹸 |
文久3年、江戸の終わり頃、
美濃の国(岐阜県中津川市)に男の子が生まれました。
12才で奉公、23才で東京に出た時、
150円の資金で、米相場を張りましたが
大失敗し、無一文になってしまいました。
荒川に飛び込んで死のうとしましたが、
死にきれず、その後小さな小物店をはじめました。
ある時、アメリカからの小物の中に
「石鹸」が入っていました。
日本の石鹸とは比べ物にならない品質に驚き、
1890年、長瀬富郎は「長瀬商店」を
「石鹸専門店」と改め、
“顔を石鹸で洗える!”と宣伝しました。
(当時の石鹸は顔を洗えなかった)
「香王石鹸」の始まりです。
安くて、全国からの注文が殺到しました。
モットーは“安くて、良いものを!”でした。
“あの相場の教訓は死ぬまで忘れない!”
“荒川の冷たさを一生忘れない”
やがて名前を「花王石鹸」とし、
“安くて、良いものを!”
その心が、やがて「日本一」となりました。
【10】 孫正義 |
1957年、佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に
一人の男の子が生まれました。
豚とヤギと一緒に寝るような、
不衛生で、貧しい家でした。
豚のオシッコの音で目を覚ます辛い生活だったと、
佐賀放送のインタビューで語っています。
久留米高校から、カルフォルニア大学に行きました。
渡米前、マクドナルドの日本社長「藤田田(でん)」氏に、
藤田が書いたユダヤ商法の本にサインをお願いしたいと、
東京の自宅前で、雨の中8時間立ち続けました。
藤田からサインをもらい、彼は日本を発ちました。
おばあちゃんの“人に喜んでもらえる仕事をしなさい”
との言葉のように、“どこか名前も知らない
小さな女の子に、ありがとうと言ってもらえるような、
そんな仕事がしたい”と、孫正義氏は語る。
孫正義氏の最初のコンピュータを、
藤田氏は“あの雨の中の少年か”と言って、
マクドナルド全店舗に入れてくれました。
豚のオシッコの匂いがすると、
学校で受けたイジメに耐え抜いた孫氏の
2020年の給料は2億9千万円でした。
辛い時ほど夢が有った、と彼は語る。
東京の銀座支店で、
“おじさん、携帯ありがとう”
と言ってもらったそうです。
【9】 「赤とんぼ」誕生秘話 |
明治22年、兵庫県たつの市に一人の男子が生まれました。
5才の時、姉と二人は叔父さんに引き取られましたが、
とても貧しい生活でした。
8歳の時、2つ上の姉が高熱を出し死をさまよった時、
少年は夜中に道行く人に、
“お姉ちゃんが、死んでしまうから助けて下さい”
と必死でたのみました。
すると、“山の畑の桑の実を食べさせなさい”
と声をかけてくれた人がいて、
少年は必死で、夜中桑の実をコカゴに摘み、
お姉さんに与えたら、元気に回復したのです。
「桑の実(マルベリー)」は、
ビタミンB群の固まりです!
やがて青年(三木露風)が
慶応大学に通っている時、
アパートの窓の竹竿に、
“赤とんぼ”が止まっているのを見て、
あの名曲「赤とんぼ」が生まれました。
【8】 釈迦とスジャータ |
6年に亘る、生死の境を行き来するような激しい苦行の後、
釈迦は道ばたに倒れ込み、半分死んだ状態となりました。
それを村の女(スジャータ)が見つけ、
家から貴重な「乳粥」を持ってきて、釈迦に飲ませました。
心身ともに回復した釈迦は、近くの菩提樹の木の下に座し、
ついに悟りを開き(旧暦12月8日)、仏教が成道しました。
“人が良い”と書いて「食」と成ります。
品(ほん=お経)と合わせて「食品」の語源となりました。
名古屋の「スジャータ」は有名企業です。
コーヒーにミルクを入れ、
疲れたサラリーマンを今も癒しています。
【7】 コカ・コーラの始まり |
1886年、すべては一人の人から始まりました。
ベンバートは、ある日の午後、
香り高いアメ色の「コラの実」に
シロップを混ぜ、そのあと水を入れるのを間違って、
「炭酸水」を入れてしまいました。
お客がもう1杯下さいと言ったので
びっくりでした。「コカ・コーラ」の誕生でした!
薬局でしたから、次の日から売ってみましたが、
一日たったの9杯でした。
時は流れ、今は世界中で一日19億杯です!
コラの実はアフリカで取れる健康果汁です。
最初日本に来たときは、骨やお金が溶けると言われ、
営業マンは公園で皆泣いたそうです。
皆な初期は苦しい歴史が有りますね!
【6】 弘法大師と女 |
「弘法大師」が、阿波国で一人の女性に会いました。
その女性は、“私には生きる夢がありません!
希望もありません!どうしたら良いのでしょうか!”
と、泣きながら尋ねました。弘法大師は優しく、
「女よ、夢も、希望も、楽しみも、
どこからか来るものではありません!
自分で作り出すものなのです!
野の花を見なさい! 足も手も無いけれど、
あんなに綺麗な花を咲かしているではないですか!
人は、足も手も口もあるのに、
夢や希望を作り出せない訳が無い。
負けてはいけません!」と語りました。
やがてこの女性の子孫から「道元」が生まれました。
まさに“夢や希望”は、作り出すものなのです!
【5】 山のお医者さん |
ヤマユリの匂いは、夜、昼の三倍も出ます!
夜、多くの動物達が子供を連れてきます。
ヤマユリの根を食べて、病気を治すのです!
ヤマユリの根は、ビタミンBの固まりデス!
植物の中で、一番の免疫力です!
ヨーロッパでは、「山の病院」と言われています。
「ホスピタルリリー」です!
ヤマユリは必ず「北極星」に向かって咲きます!
登山家は、「ポールリリー」と呼びます!
道に迷ったら、ユリの花で「北」が分かるのです!
【4】 ユリの王様・ビタミンB群 |
植物には手足がありません。
動物のように危機が迫った時動くことはできません。
しかし、動けないからこそ、
自分で強い免疫力・バリア機能を発動し、
病原菌をはねのけているのです。
東京理科大の北畑教授によれば、植物の中で、
「ユリ根」がNo.1の免疫力もっているそうです。
「ユリ根」はビタミンB群の固まりです。
古代から、ユリは美しいので、
すぐに折られてしまいますが、
枯れないで、次の年も花を咲かせてくれます。
尊敬しますね!
肌の再生には「ビタミンB群」が絶対欠かせません。
毎日若々しくなって、
是非夢を実現してください!
【3】 豊田佐吉/トヨタ自動車 |
1867年、江戸の終わりごろ、
静岡県湖西市に一人の男の子が生まれました。
父親は大工でしたが、毎日飲んだくれ、家計は、
夜遅くまで、母が糸紡ぎをして助けていました。
ある日酒に酔った勢いで、母にカナヅチを投げつけ、
それが母の目の下に当たりました。
佐吉は8才の時、愛知県岡崎の「岩津天満宮」へ、
一人で歩いて参拝しました。
この時、不思議な体験をした佐吉は、
大工の修業をしつつ、母の機織り仕事を
助けられたらという思いから、
「機織機」の“改良”と新たな“発明”に
取り組みました。
苦労の末ついに「豊田式自動機織機」が出来上りました。
息子の「喜一郎」が、機織機から「自動車」に移行し、
今日の世界の「トヨタ自動車」となりました。
佐吉は死ぬまで、父親が投げたカナヅチの話を
していたそうです。(文)
【2】 家康の母 |
1528年、今の愛知県知多郡に一人の“女の子”が生まれました。
松平広忠の娘です。とても賢く、頭の良い子でした。
水野家に嫁に行きましたが、なかなか子が授かりませんでした。
離縁されると思い、三河の山寺の鳳来寺山に行き、願を掛けました。
“子が授かったら、民の平和のためにささげます”
それを山寺の木の上で、八咫烏(ヤタガラス)が聞いていました。
願いが叶い、竹千代(徳川家康)が生まれました!
その時から、八咫烏は竹千代の守り神となり、
死ぬまで家康を助けました。
八咫烏は、秋葉神社と熊野神社に巣を作っている「火の神」です。
悲しみ、辛さ、苦しみを焼き切ってくれます!
家康は江戸を作る時、一番初めに秋葉神社を立てました。
それが今の「秋葉原」です!日本のJリーグも、
胸ポケットに八咫烏が輝いています!
家康の母は、今も文京区の伝通院で八咫烏と共に眠っています。
江戸時代になって、母の約束どおり一度も戦いはありませんでした。
300年間もの長きにわたる平和は、世界でも例がありません。
【1】 崎陽軒 |
明治41年、長崎で男の子が生まれました!
その男の子は鉄道員(久保)となり、横浜に勤務していました。
ある日、中華街に遊びに行き、「シウマイ」に大きな衝撃を受け、
コレを是非「駅弁」で売りたい!と思いました。
中華街の呉偶孫(ごぐうそん)にお願いして、
シウマイの作り方を教わり、
昭和3年、初めて駅の売店で売りました。
一週間ゼロでした!泣いて、泣いて、
いつか1個売れる日が来るからと耐え抜きました…。
やがて、昭和24年「シウマイ娘」を駅の片隅に置いた、
今の「崎陽軒」が生まれました。
「崎陽軒」という名は、久保が長崎出身
(長崎の漢文風の別称が「崎陽」で、
その意味は“太陽の当たる岬”)であることに由来しています。
久保は、太陽のように毎日明るく全駅の娘達に回って励ましました!
一度も怒ったことがない太陽のようでした。
やがて、日本一の「崎陽軒」が生まれました。(文)